真夏の金曜日、新橋は桜田公園
会社での飲み会のあと、一息入れようと同僚と公園へ向かう。
ベンチどころか柵や地べたに座り込み、缶ビール片手に飲み直しってやつだ。
だいたい近頃の都心の公園にはベンチなんてほとんどない。
ふざけてやがる。
それでも何気なく公園に集まる人は多い。
我々のようにアルコールに脚力を奪われ、スーツ姿のまま座り込むオヤジたちや、べろチューがとまらない学生カップル、結婚式のお祝いムービーの撮影のために協力してほしいと、典型的な新橋サラリーマンを求めて我々に話しかけてきたお兄ちゃんたち。
「借りた金は返すのが当たりめぇーだろーがぁ!!」
とケータイ片手に怒号を飛ばす、首筋に入れ墨を入れたその筋の人も乱入してきた。
パラダイスや。
まして、ここ数日で、スマホ片手にポケモンを探しに来るという人種まで大量発生している。
歩きスマホは危ない!と善良な紳士淑女はおっしゃるけども、公園や街角で立ち止まったりブラブラしている人がいる光景そのものはよい。
足早に通過していく街など、つまらん。
滞留感こそ街には必要なんだよ。
夜の新橋繁華街ど真ん中の公園が、一時だけ東南アジアの喧騒溢れる街角に見えた。
東武伊勢崎線、奥の方で
「このあたりの人は、どこで働いてるんだろうね?」
仕事や遊びやその他諸々で、東京から少し離れて北関東などへ向かった際、車窓の外の風景を見ながら、同行者がこうこぼしたことは一度ではない。数多ある。
東京からほんのわずか離れた、北関東でさえ、である。
他者の生活への想像力の欠如ゆえか、ないしはサラリーマン社会を前提とした東京在住者の視野の狭さゆえか、あるいはその他の何かがこうした素朴な疑問を生み出している。
少なくとも言えることは、人が生きていくうえで必要であろう農業や畜産業などの一次産業、あるいは食料品や日用品の小売りを行う個人の商店などという、(かつては)当たり前だった生業が、言葉の通りの「生活のための仕事」として、まったく想定されていないということだ。
おそらくは、ネクタイを締めて日々通勤するいわゆる会社員か、スーパーマーケットなどの店舗スタッフとして働く生活しか、うまく想像できていない。
それは「正規」か「非正規」かという違いでもある。
「どこで働いているんだろ?」という言葉のうしろに見え隠れするのは、このような二分化された労働環境に基づく社会観であろう。
そんなことを考えていると、
「デザイナー?そんなんでメシ食えるんかい?」
と生粋の農家の三男坊であるオヤジが上京した際に言い放った言葉が頭に浮かんだ。
当世の断層を示す言葉は至るところに。
子のある風景
いつか焼酎を買い求めたあの店
外回りの仕事の合間、台東区三ノ輪付近で時間が空いたので、土手通りから、入り口にあしたのジョー像が設置されている、いろは会商店街のアーケードに入り、山谷や南千住付近を徘徊した。
言わずもがな、山谷は日雇い労働者の街、いわゆるドヤ街である。
というのも、もはや過去の話だろうか。
街を象徴するいろは会は、半分以上の店でシャッターがおろされ、人通りはほとんどない。
数少ない店の店員も、通りを行く男たちも手持無沙汰だ。
あらゆる意味で、行き場を失っている。
アーケードを抜けた先で、建物の解体工事が行われていた。
その工事柵の外から男が何やら叫んでいる。
どうやら工事に抗議をしている様子だ。
「うるせえんだよ!」などと言っているようにも聞こえるが、酒も入っているその声はうまく聞き取れるものではなかった。
その日の仕事のあと、気になって、googleのストリートビューをひらく。
撮影日がちょうど1年前ぐらいのその場所に建っていたのは、酒屋であった。
焼酎を返せ。
浅草オペラ
1月の成人の日、浅草へ向かった。
新年の初詣客の晴れ着と新成人の晴れ着が入り混じり、晴れ着の着用率は1年で最も高い日だったと思う。浅草寺界隈は非常に晴れやかな雰囲気である。
大変失礼ながら、新成人か否かを振袖やお顔などで判断しながら、浅草寺境内を六区の方へ抜けていく。
テキ屋のおじさんが、「おめでとうございます。」などと声をかけている。彼も自分と同じような仕方で判断しているのだろう。
目的地は浅草木馬亭である。浅草演芸ホールや東洋館は落語や漫才のメッカだが、こちらは浪曲を中心に興行している演芸場である。
しかし、その日は浪曲ではなく、軽演劇を鑑賞した。
浅草での軽演劇は、かつて浅草オペラと呼ばれていた。当日、鑑賞した演劇団もその系譜をひくものであるといえる。
会場の木馬亭はとても年季が入っている。
幕は人力で縄を引っ張って開閉しているためかズルズルと動き、館内の音響調節は最後方の客席の後ろで、担当者がくたびれ加減に行っている。空調もあまり万全でないのか、喉が弱い自分は入館後すぐにイガイガしはじめた。
100席少々の小さなハコのなかで上演される喜劇や漫談は、観客との距離も近い。
ポンカンの皮をブーメランのように見事にとばす漫談師が「お茶を飲みたい」と嘯けば、観客のおじさんが売店にお茶を買いに走り、また別のおばさんは「お土産を持ってきた」と言って舞台までおもむろに向かい、ついにはお小遣いと言って千円札まで渡す。
馴染みの観客が何度も何度も舞台へ向かい、他の観客はそれをみて楽しむ。
ここでは演じる側とそれを観る側という関係性はとても曖昧なものであり、私のように気まぐれで入館し、その完全に分離された両者の関係性に甘えたい人間にとっては、ドキドキハラハラものであった。
漫談や舞踊などの上演の後、トリは軽演劇であった。
浅草で葬儀社を営む男とその家族、従業員が織りなす喜劇であった。
葬儀社の主人はなぜかジャイアンツの帽子を被っていた。正月という設定もあり、袴を着ていて、店を模した壁には日の丸が掲げられていた。
その一方、そこで働く従業員は、訛りがきつく話を聞きとるのが難しいという設定の「青森人」と、なぜかその青森弁を聞き取るのがうまい中近東出身の外国人で、また、主人の妹は「石女」という烙印を押され、実家に出戻ってきたという設定であった。
そんな彼らを取り仕切るのが、袴にジャイアンツ帽を被った主人である。
物語の構造があまりにも明け透けである。
結末もまた同様である。
その中近東出身の従業員は、実は国王の息子、つまり王子だったということが発覚する。本国ではやんちゃまみれだったが、浅草の人々に囲まれて生活することで更生したと来日した国王は感激し、結局、王子はその地位を捨て、浅草で生きていくことを選ぶというものであった。
とても分かりやすい。
浅草オペラ、分かりやすい。
悔しいが、差別と笑いは切っても切り離すことができないものだということは、認めたくなくても認めざるをえない。
バカバカしいといって切り捨ててしまいたくなるのは、実は差別的な自分を直視したくないからだろう。
だから、とりあえず、切り捨ててしまうのはやめておく。
そこまで思って、地下に入り、銀座線で浅草をあとにした。
ダイエー碑文谷店
今年の5月頃に閉店するらしい。
去年、ダイエーはイオンの完全子会社になったので、ある程度予想できたことではある。
閉店後は、イオンの店舗として再出発するらしい。
環七との交差点である柿の木坂陸橋にほど近い、目黒通り沿いの当店。土地柄、芸能関係の方々も日常的に多く訪れてきたらしい。
ダイエーの東京における旗艦店として位置づけられてきたこの店舗が閉鎖されることは、60年代から90年代にかけ、流通小売りの世界を席巻してきたダイエーが、ついに完全に終わることを印象付ける。
この地に引っ越してきて、3年ほどしか経たない私の感慨など、何十年と通い続けてきたであろう地元の方々に及ぶはずもないが、それでも何やら、何とも言いがたい気持ちである。
それは、90年代に少年時代を過ごしてきた私にとって、ダイエーは土地や店舗を問わず、その記憶と切り離すことが難しいものであるからだと思う。
私の生まれ育った田舎にもダイエーはあった。
地元資本の小規模スーパーとは異なり、店舗内にはいくつもの専門店が入っていた。
ダイエー系列のドムドムバーガーは、マクドナルドより先にハンバーガーの味を教えてくれた。
店舗内の片隅にあったゲームコーナーも、きっと心を躍らせてくれるものであったと思う。
幼い頃、親に手を引かれて浮かれ気分で見たものと同じ光景が、この碑文谷店にもあった。
食品売り場だけでなく、衣類、寝具、家電、文具、書籍、スポーツ用品、眼鏡、そしてもちろん最上階にはフードコートがあり、そこにはドムドムバーガーもある。(今なおここのフードコートは繁盛している!)
ゲームコーナーは、スマホ時代の当世にあっても、現役で子どもたちを楽しませているようだ。
碑文谷店の閉店は、少年時代の記憶にリアルにアクセスできる機会を失うことを意味する。碑文谷店に訪れたことのある80年代生まれで、このような感慨を持つのは私だけではないだろう。
ダイエーが「流通革命」を起こし、小売業界を席巻し始めたころ、出店に反対したのは、各地の商店主であったと言われる。
商店主が異議を唱えたのは、何よりも、ダイエーが仕掛ける価格競争や豊富な品数に対抗することが難しかったからだ。
しかし、ダイエーに脅威を感じた理由は、それだけではなかったはずだ。
ダイエーはこの碑文谷店がそうであるように、ダイエーという店舗のなかに、衣類や書籍などの専門店を入れることで、ダイエーを丸ごと商店街にしようとした。
だからこそ、各地の商店主は反対の声をあげたのだ。
碑文谷店を見ればよく分かる。
1~2階が食品、3~4階が衣類で、5階に眼鏡店や合鍵屋…と、まさにタテに長い商店街である。
商店街をまるごと一棟に詰め込んでしまおうという思想が明らかに見て取れる。
碑文谷店は、そのダイエーの思想のひとつの完成形であった。
しかし、あくまでもそこは「商店街」だというところがミソである。
そこがかつて、ウケた。だが、だからこそ勢いを失い、イオンに買収された。
ダイエーは、整備された各地の「ショッピングストリート」よりも、はるかに商店街的である。
ダイエーの消滅は、ひとつのスーパーマーケットが閉店するというだけにとどまらず、商店街文化のひとつの派生形の消滅を意味する。
この商店街文化は、スーパーマーケット登場からショッピングモールの隆盛という時代にあわせ、改良に改良を加えられた商店街よりも、スーパーマーケット登場以前の商店街の趣を感じさせる。
矛盾しているようだが、ダイエーを通して、かつての商店街文化は生き延びていたのである。
時計の電池がなくなったようだったので、先日、ダイエー内の時計屋に向かった。
合鍵を作りたい、時計の電池がなくなったなどという時、とりあえず、あそこに行けば何とかなるだろうという考えがあるのも、ダイエーが生み出した消費文化に浸ってきたせいだろう。
時計店は、店名と外観はいかにもイマ風にしている。
だが、店員さんは昔からここで商売をされてきたであろう、なじみのある雰囲気を醸し出しておられた。
まさしく、古くからの商店街のなかの時計屋に訪れた時の、あの感覚と相違ないものである。
ダイエーという消費文化が終わった後、この感覚の行方は?