ダイエー碑文谷店
今年の5月頃に閉店するらしい。
去年、ダイエーはイオンの完全子会社になったので、ある程度予想できたことではある。
閉店後は、イオンの店舗として再出発するらしい。
環七との交差点である柿の木坂陸橋にほど近い、目黒通り沿いの当店。土地柄、芸能関係の方々も日常的に多く訪れてきたらしい。
ダイエーの東京における旗艦店として位置づけられてきたこの店舗が閉鎖されることは、60年代から90年代にかけ、流通小売りの世界を席巻してきたダイエーが、ついに完全に終わることを印象付ける。
この地に引っ越してきて、3年ほどしか経たない私の感慨など、何十年と通い続けてきたであろう地元の方々に及ぶはずもないが、それでも何やら、何とも言いがたい気持ちである。
それは、90年代に少年時代を過ごしてきた私にとって、ダイエーは土地や店舗を問わず、その記憶と切り離すことが難しいものであるからだと思う。
私の生まれ育った田舎にもダイエーはあった。
地元資本の小規模スーパーとは異なり、店舗内にはいくつもの専門店が入っていた。
ダイエー系列のドムドムバーガーは、マクドナルドより先にハンバーガーの味を教えてくれた。
店舗内の片隅にあったゲームコーナーも、きっと心を躍らせてくれるものであったと思う。
幼い頃、親に手を引かれて浮かれ気分で見たものと同じ光景が、この碑文谷店にもあった。
食品売り場だけでなく、衣類、寝具、家電、文具、書籍、スポーツ用品、眼鏡、そしてもちろん最上階にはフードコートがあり、そこにはドムドムバーガーもある。(今なおここのフードコートは繁盛している!)
ゲームコーナーは、スマホ時代の当世にあっても、現役で子どもたちを楽しませているようだ。
碑文谷店の閉店は、少年時代の記憶にリアルにアクセスできる機会を失うことを意味する。碑文谷店に訪れたことのある80年代生まれで、このような感慨を持つのは私だけではないだろう。
ダイエーが「流通革命」を起こし、小売業界を席巻し始めたころ、出店に反対したのは、各地の商店主であったと言われる。
商店主が異議を唱えたのは、何よりも、ダイエーが仕掛ける価格競争や豊富な品数に対抗することが難しかったからだ。
しかし、ダイエーに脅威を感じた理由は、それだけではなかったはずだ。
ダイエーはこの碑文谷店がそうであるように、ダイエーという店舗のなかに、衣類や書籍などの専門店を入れることで、ダイエーを丸ごと商店街にしようとした。
だからこそ、各地の商店主は反対の声をあげたのだ。
碑文谷店を見ればよく分かる。
1~2階が食品、3~4階が衣類で、5階に眼鏡店や合鍵屋…と、まさにタテに長い商店街である。
商店街をまるごと一棟に詰め込んでしまおうという思想が明らかに見て取れる。
碑文谷店は、そのダイエーの思想のひとつの完成形であった。
しかし、あくまでもそこは「商店街」だというところがミソである。
そこがかつて、ウケた。だが、だからこそ勢いを失い、イオンに買収された。
ダイエーは、整備された各地の「ショッピングストリート」よりも、はるかに商店街的である。
ダイエーの消滅は、ひとつのスーパーマーケットが閉店するというだけにとどまらず、商店街文化のひとつの派生形の消滅を意味する。
この商店街文化は、スーパーマーケット登場からショッピングモールの隆盛という時代にあわせ、改良に改良を加えられた商店街よりも、スーパーマーケット登場以前の商店街の趣を感じさせる。
矛盾しているようだが、ダイエーを通して、かつての商店街文化は生き延びていたのである。
時計の電池がなくなったようだったので、先日、ダイエー内の時計屋に向かった。
合鍵を作りたい、時計の電池がなくなったなどという時、とりあえず、あそこに行けば何とかなるだろうという考えがあるのも、ダイエーが生み出した消費文化に浸ってきたせいだろう。
時計店は、店名と外観はいかにもイマ風にしている。
だが、店員さんは昔からここで商売をされてきたであろう、なじみのある雰囲気を醸し出しておられた。
まさしく、古くからの商店街のなかの時計屋に訪れた時の、あの感覚と相違ないものである。
ダイエーという消費文化が終わった後、この感覚の行方は?